義仲館

長野県木曽町日義地区にある「木曽義仲」の顕彰施設です。リニューアルオープンは2021年7月4日! 義仲館の展示作品の背景にある「歴史」「伝承」「文学」をやさしい文章で紹介します。 収録伝承600以上。地図と共に掲載しています。

義仲戦記

3/27より、毎日20:30に更新! 源平盛衰記と玉葉をベースに義仲の戦をストーリー仕立てで紹介! 巴・今井兼平はもちろん、あなたのご近所の地名を冠した地方武士も登場するかも!? ※タイトルに年/月を入れていますが、歴史に詳しくない方のために、年は西暦年表示にしています。(月は和暦です。)

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  • 47本

義仲戦記53「残照」

「関東勢は既に宇治,勢多二方面より京中へ侵攻。 この上は京への帰還の好機は失われた事となり、逸早く京への御幸は取り止め、平氏一門は福原へ戻られよ、との主君義仲の言葉に御座います」 義仲勢の武将落合兼行が冷静に告げると、平氏方の御幸の行列より先行していた越前三位通盛と皇后宮亮経正の両将は絶句したまま馬上で固まっている。 義仲の命を受けた落合兼行は、京を出ると淀川沿いに南下し、摂津に入って富田[大阪府高槻市]辺りで平氏方の先行部隊の通盛と経正に行き合う事が出来たのであった。

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義仲戦記52「約束の場所」

五騎の一角が崩れた。 先頭を駆けていた家包の馬に矢が命中し、乗っていた家包もろとも馬が横様に倒れたのである。 「私に構わず行って下さい!」 家包はよろけながらも直ぐに立ち上がると、駆け続けている四騎に叫んだ。 義仲・兼平・巴・光盛は、家包に目礼を送り返答とした。 と、 「私は上野の多胡次郎家包!私を討ち取り手柄にするが良い!」 家包は叫びつつ太刀を振り翳して敵に斬り掛かって行った。 だが、関東勢はこれに応じず、十五騎の騎馬武者か家包を取り囲むと、その武士らは馬から

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義仲戦記51「運命の日 急」

状況は最悪であった。 出陣した義仲勢第七軍二〇〇騎は六条をそのまま東に進み、六条河原に出たところで全軍を一旦停止させて周囲を見渡すと、既に七条、八条の河原や法住寺、柳原の辺りには白い旗が幾条も天に翻っていたのである。 白い旗は源氏を示す旗であるが、同じく白い旗を用いている義仲勢にとって、これは味方を表す色では無く、敵の存在を現す不吉な色となっていた。 「来た」 戦う美少女巴御前が馬上で、長く艶やかな髪を後ろに靡かせながら呟いた。 周囲に翻る白い旗が義仲勢を囲

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義仲戦記50「運命の日 破」

“一月十八日。 行家討伐軍。 河内長野石川城を陥落させ石川判官代蔵人家光を討ち取る。 が、新宮行家の逃亡を宥し、現在、紀伊國名草へ向け追撃中。軍勢一〇〇〇騎は無事。” “本日二十日。 宇治方面軍壊滅。 第二軍大将長瀬判官代義員・第三軍大将楯親忠・第四軍大将及び搦手総大将根井小弥太行忠討死。 関東勢搦手二万五〇〇〇騎は宇治川を渡河し現在、京に向け北進中。既に木幡・伏見まで侵攻。” “本日二十日。 勢多方面軍壊滅。 第五軍大将志田三郎先生義憲・山本義経討死。 第六軍大

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その時 木曽殿の動きは

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の展開に合わせて、「その時 木曽殿はどうしていたのか?」を解説しています。

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  • 16本

その時 木曽殿の動きは #16

解説 C O M E N T A R Y ―――――――――――――――――――――――――――――― 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」 ―――――――――――――――――――――――――――――― 【監修】義仲館P 西川かおり 都の義仲(1183年10月末~1184年1月) 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では時間的な制約のためか、木曽義仲についてはとても省略されてしまいました。詳しい様子について、現在あまり指摘されていない「玉葉」の中での描かれ方も含

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その時 木曽殿の動きは #15

解説 C O M E N T A R Y ―――――――――――――――――――――――――――――― 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」 ―――――――――――――――――――――――――――――― 【監修】義仲館P 西川かおり 都の義仲(1183年7月末~9月) 都に入ってから転落していくかのように描かれることが多い義仲の様子ですが、詳しく見てみましょう。 1 「相伴源氏」現る  義仲の軍勢はもともと信濃・上野国、北陸地方の武士で構成されていまし

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その時 木曽殿の動きは #14

解説 C O M E N T A R Y ―――――――――――――――――――――――――――――― 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」 ―――――――――――――――――――――――――――――― 【監修】義仲館P 西川かおり 北陸合戦のそれまでとそれから 大河ドラマではあっという間に都に入ってしまう義仲。確かに北陸の合戦そのものは1183年の6月に戦われたもので、7月の下旬には都に入っています。しかしそこに至るまでには様々ないきさつがありました。

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その時 木曽殿の動きは #13

解説 C O M E N T A R Y ―――――――――――――――――――――――――――――― 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」 ―――――――――――――――――――――――――――――― 【監修】義仲館P 西川かおり 源頼朝の信濃侵攻と義高の鎌倉行き 大河ドラマでは北条義時らが信濃を訪ねてくる展開になっていましたが、平家物語では頼朝が軍を率いてやってきたことになっています。  ただ、その年の記述が抜け落ちている吾妻鏡はもとより、同時代の史

伝承の館(福井編)

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  • 30本

河上城

寿永二年(一一八三)四月、平泉寺長吏斎明の裏切りで源氏方の燧城が落とされ、北陸武士は河上城に転戦した。山腹に南北にわたって深さ三メートルほどの堀跡が二条残っているという。 福井県坂井市丸岡町河上

平泉寺長吏斎明(斉明)

平泉寺斎明(斉明) 福井県勝山市平泉寺 平泉寺威儀師 斎藤氏  越前斎藤氏は代々越前の大寺院・平泉寺に子息を送って影響力を保っていた。越前は都に近く平家の直接支配下にあり、斎明は同族の稲津と共に平家方について戦っていたが、加賀の人々が反平家の兵をあげ攻めてきたのを見て、義仲方に寝返った。  義仲方に加わってからは主要武将格となり、燧合戦では筆頭に書かれる存在だった。ところが斎明は無情に戦局を冷静に見ており、義仲の軍勢が平家よりも大幅に少ないことから、燧合戦を境に平家方に再び

白山神社(福井県鯖江市)

義仲が宿営したという。その際義仲が薄墨桜と歌を詠み短冊をつけたという神木桜あったという。 福井県鯖江市水落町1丁目8

城山(福井県福井市)

斎藤実盛・実員兄弟が1182年に越後から南下する木曾義仲軍を防ぐため築いた城の跡と伝えられている。北麓に城ヶ谷・城ノ下・一の城戸・二の城戸・馬場・的場・館跡の地名が残る。 福井県福井市清水畑

義仲ものがたり

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の進度に合わせて公開していく、義仲館オリジナル義仲ストーリー。600か所以上に及ぶ伝承地をふまえた独自の展開をお楽しみください。 〇読み口が軽い「信濃源氏長瀬義員が見た木曽義仲」…連続物 〇合戦を中心に語る「義仲戦記」…合戦ごと読めます 〇義仲にまつわる歴史上の人物を扱う番外編 の三種類を用意しています。

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  • 14本

行家ものがたり⁉③1183年2月

木曽義仲と源頼朝の叔父にして、伝説の男・源行家。 その伝説とは…巡り合う者を次々と不幸に陥れることだった。 しかし本人はいたって日々ポジティブに生きていた。 (ほほう。義仲は横田河原[後の川中島]で平氏に勝ったんだじゃな! さすがワシの甥だけの事は有るのう! いやなかなか見所のある武将になったもんじゃ! ワシの為にこんなに強く成長してくれるとはのう! これでワシの麾下には頼朝と義仲の二人の甥が従ってくれる筈じゃ! そうに違い無い! 何せワシは大将軍新宮十郎蔵人行家じゃからな

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行家ものがたり⁉② 1181年3月

(遂に時代の主人公であるワシが出陣する時が来たようじゃ!) 彼は盛り上がっているのを通り越して、一人でイっちゃっている。 まぁ無理も無い。 彼にとってはおよそ二十一年ぶりの出陣なのであった。 彼はこの一年、とても忙しく活動していた。それまでの約二十年間、ほとんど何もしていなかったのと対象的に。だが、この一年忙しかったのは別に彼だけでは無かった。 ■ 「義仲戦記」「義仲ものがたり」とは独立で読めます ■ 歩くチェーンホラー「源行家」は全国の源氏に「以仁王の令旨」をデリバ

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義仲ものがたり #11

注・「義仲戦記2横田河原合戦」は「義仲ものがたり11」の後のエピソードになりますが、義仲戦記シリーズは、独立して読めるように作成しています。 ~ 信濃源氏・長瀬義員が見た義仲 ~ 「どなたか…! どなたかわかりませんが、お助けいただきありがとうござ…ああっ!?」 義仲様を見て号泣している妙齢のご婦人を見て、俺も巴殿も、みんなわけがわからずあっけに取られていた。 そこに俺たちと同じぐらいの年の騎馬武者がお礼を言いながら駆け付けた。 のだが 「お前たち一体何者だ!母上に

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義仲ものがたり #10

~信濃源氏・長瀬義員が見た義仲~  信濃源氏・長瀬義員は木曽義仲の幼なじみであり、少々頼りない所もあるが信頼される家臣の一人である。  義仲は長野市で初戦・市原の合戦に勝ち、次の戦の相手は越後国の城氏ではないかと見当をつけている。そのため兵力拡大を目指し亡き父の家臣がいた上野国への進出を検討していたところ、信濃国へ義仲への伝令がひとつもないまま甲斐国から武田・一条の軍勢が侵入した。その上義仲と均衡を保っていた伊那谷の平氏方武士・菅冠者を襲い、また甲斐に戻っていった。  義仲

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伝承の館(松本・安曇野編)

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  • 18本

泉福寺

義仲が1183(寿永2)年に開基したと寺伝で伝わるが、創建はもっとさかのぼられるとみられる。 長野県安曇野市明科町南陸郷 寺村

村井城

手塚光盛の居城だったという。 長野県松本市小屋南1丁目33−17

岡田

岡田冠者親義・太郎重義・小次郎久義 松本市岡田(筑摩郡岡田) 信濃源氏。岡田冠者親義・太郎重義・小次郎久義の名が倶利伽羅合戦で見える。岡田親義は倶利伽羅合戦で戦死した。 ■関連伝承地 岡田神社 □岡田親義の奮戦「源平盛衰記」より  倶利伽羅合戦の時のこと。義仲の軍勢は夜明けになるころ、朝日を浴びて輝く容貌優美な武将が50騎ほど率いて駆け抜けていくのを見た。それは平家の軍勢を率いていた平知度と平為盛だった。義仲が「このたびの大将軍だ!討ちもらすな」と号令すると200

落馬観音

巴ゆかりという観音。松本城主がこの前を通るときは必ず馬から降り、敬意を示したと言う。付近には「巴町」「葵馬場」「駒町」などの地名が残る。 長野県松本市宮渕3丁目2 (JR北松本駅0・3㎞4分)