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その時 木曽殿の動きは #16

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

都の義仲(1183年10月末~1184年1月)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では時間的な制約のためか、木曽義仲についてはとても省略されてしまいました。詳しい様子について、現在あまり指摘されていない「玉葉」の中での描かれ方も含めて説明します。


1 新平家物語で「キャラクター化」され定着してしまった木曽義仲

 
平家物語での都における義仲のエピソードは、大まかに①入京すぐ皇位継承にからむ(8月)②猫殿の来訪と義仲の牛車での失敗=地方出身者の都会での様子を嘲笑(9月ごろ)③中国遠征=水島・妹尾合戦(~閏10月)④法住寺合戦(11月)⑤木曽最期(翌1月)となっています。
 しかし、平家・頼朝・義経などをメインにする小説・ドラマでは②のエピソードが異常なまでにクローズアップされることが多く、そこを軸として物語全体のキャラクター設定がなされるため、必要以上に粗野で荒々しい外見、立ち振る舞いなどの演出がされています。
 そのキャラクター設定は昭和25年(1950年)から7年にわたり連載された「新平家物語」が元祖といえ、現代社会で史学分野にまで影響を及ぼす義仲像類型化のはじまりです。それ以前の義仲は描かれ方はさまざまで、義仲が関わった地域では英雄・地域の誇りとされていました。


※第二次世界大戦の終戦は昭和20年。(1945年)

※例えば芥川による「義仲論」は明治43年(1910年)。当時は義仲が地方育ちであることは「野生=ありのままの美しさ」として受け止められていた。
※長野県歌「信濃の国」明治33年(1900年)発表。

※「新平家物語」が連載・映像化されていた当時、上京した長野県出身者が「木曽の山猿かwwww」と嘲笑され、それから義仲のことを言うのを避けるようになったという証言が多数あります。ひとつの小説を通して、義仲は信濃国の英雄から長野県の恥に変えられてしまったのです。そして県民の記憶と歴史教育から消えました。北陸各県ではこのような身につまされる体験がないため、そのまま義仲は好印象のまま伝承されています。


 「平家物語が義仲のイメージを悪くした」という声も多く聞きますが、義仲を面白おかしく描いたのは全体のほんの一部であり、戦後以降の「新平家物語による義仲像」再生産の方に問題があります。なぜ平家物語を題材に描くとき、平家物語自体をきちんと読まないのか、クリエイターとして他者のキャラクターイメージにのっとって作品化できるのか、理解できませんが、それほどまでに吉川英治のキャラクター描写力が秀でていたとも言えます。

 義仲の最期を描いた「木曽最期」は多くの教科書、古典の問題集など広く取り扱われてきました。教科書に載せたくなる名文であるだけでなく「感情」で850年以上昔に生きた人と、現代人が心を通わせられる名場面と認識されているからでしょう。国文学では「平家物語」が語る木曽義仲はその人間像も含めて評価されているといえます。


2 「玉葉」での都における木曽義仲

 
では史実として確認できるものはどのくらいあるのか?というと、摂関家の九条兼実がほぼ毎日日記を書き源平合戦の時期をカバーしており、さまざまな伝聞と自分の感想をリアルタイムにつづっています。そのほか残っている部分が少ない吉田経房の日記「吉記」、九条兼実の兄弟・慈円が回顧した「愚管抄」、義仲本人が発給した文書が数件あります。

 史学の世界では、「鎌倉幕府の成立」と「院政」にそれぞれ重点が置かれ、政治史的な価値が薄いとされる木曽義仲については添え物のように扱われるか無視されており、義仲が「玉葉」でどのように書かれているかもあまり真剣に読み込まれてきませんでした。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で歴史考証の一員である長村祥知先生が、学生時代から義仲をテーマの一つに据え研究し、論文を複数執筆されているにとどまっています。

 法住寺合戦の後から最期を迎えるまでの2か月間、義仲は何をしていたのかというと、貴族と協力しながら都の秩序を取り戻すべく奮闘していたことが「玉葉」から読み取れます。
 義仲はもともと「平家打倒」を絶対的な目的としてとらえておらず、国の秩序の再建もしくは新しい秩序の構築を願っていました。そのため、法住寺合戦後、貴族とさまざまな討議を繰り返す中、二か月かけて「平家との和平」に取り組み、1184年の1月に平家が帰京することで合意していたのです。

※玉葉 7/28義仲入京 9/20平家追討軍中国地方へ出発
※玉葉 11/19法住寺合戦 12/5・8・9・13・29 平家との和平の記述
 
 その計画を破綻させたのは、平家が都に入る途上に城を設け戦を仕掛けた源行家です。それにより平家は入京の予定を遅らせ、その間に鎌倉の軍勢が都に押し寄せ、義仲は粟津で命を落としました。


もし源行家が平家帰京の邪魔をしていなかったなら。
鎌倉方軍勢の入京が遅かったなら。
歴史は違うものになっていたでしょう。

 

略年譜

H I S T R Y
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義仲をたどる
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久寿元年(1154年) 誕生

久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ
〇中原兼遠に養育される

保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
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治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵

 9月7日
市原の合戦


義仲依田城(上田市)へ

9月11日
菅冠者自刃

10月13日
義仲上野国へ。上野国府周辺の混乱をおさめ、
父・義賢の家臣を味方に加える。
その際に様々な武士への安堵状を作成したのか、
北信濃の武士・藤原資弘への下文が現存する

12月24日
義仲信濃へ戻る


養和元年(1181)年

4月15日
義仲、笠原行連に安堵下文発給

6月13・14日
横田河原の合戦


養和の飢饉が起こり、源平合戦は一時中断
義仲軍では北陸武士が城を作り守りを固める

寿永二(1183)年
3月
頼朝の信濃侵攻


4月
北陸追討軍発進
燧合戦


5月
倶利伽羅合戦



6月
篠原合戦


7月
延暦寺を味方にする

7月28日
義仲入京

四国出陣

水島合戦


法住寺合戦


松殿基房政治復帰

寿永二(1184)年
義仲征東大将軍に

義仲死す